昭和44年04月20日 朝の御理解
御理解 第36節
「日本国中のあらゆる神を皆信心するというが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むのにも一人に任せるとその人が、力をいれて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても棟梁がなければならん。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる。」
この三十六節から、長いご理解ですけれども肝心要の所「草木でも芯というたら一つじゃ」と「神信心もこの一心を出すと」と、ここのところだと思うですね。ここのところを教えて下さろうとして色んな例をとっておられますよね。「日本国中のあらゆる神をを信心するというが。」是は日本人の宗教というか信仰というか、それはそれこそ八百万の神様と言った様なそれが信心が手厚いのだと言う風に。
そういう思い込みを皆んながしております。どこの神様、どこのお寺様と、例えば教祖の神様もやはり信心がお好きであったと。それでやはりそれこそありとあらゆる、神様を拝んでおられますね。仏様を拝んでおられます。そういう信心からこのお道の信心。お道の信心というか天地金乃神様の神頼みがあり、金光教の信心が生まれてまいりますといよいよ天地金乃神一心と言う所に信心を進めておいでられた。
この方が祈る所天地金乃神と一心なりという。そこでその問題はその一心なんですけれども神信心もこの一心を出すと直ぐにおかげが受けられるというこの、神信心に一心と言うことは、どう言う様な事を、具体的に言ったら良いのだろうかと。一心を出すと此処で言うおかげというのは、その全ての事があると私共が色々の願い事をすると。その願いが成就すると言う事もあろう。
又このおかげというのは一心を出すと、お徳というおかげが受けられると言う事にもなる。このおかげというのは非常に範囲の広いおかげだとこう思う。ですからおかげを受けるにも一心を出さなければならない。お徳を受けるにもこの一心を出さなければならない。只問題は、その一心を向ける焦点と申しましょうか、そこんところが私は段々高度な所へ変わって行く。そこに段々いわゆるおかげを受ける、信心が進んで行く、お徳が受けられると云う事になるのですよね。
私の場合、自分で思うてみますのに、自分はどこが一心だったかと思うのです。それはもう、物心つく時から金光様を唱える事をまあ、教えられるというかそういう家庭におかげを受けておりますから、もうご飯を頂くにも神様頂きます、小学校に行く様になって遠足といえばその、すぐ教会にお届けに行かなければならなかったし、さあ運動会と言えば怪我せんごとはよお願いしときなさいと言う様にです。
もういわゆる神様中心ですわね。その様な風にして育てられておりますからその、例えば自分の将来というかね、自分が本当に幸せになると云う事、自分が立身出世をするというか、まあ私は小さい時から商売人を志しておりましたから、商売人一心になりましたが、その商売に一心になりましたが熱心にもなりましたがです。そのそこに感じておりましたもの底流、そこに私がこれはそう思い込ませて頂いておったものそれはね。
私はもう絶対金光様の御信心によらなければ、助からぬ私だと云う事だったと思うのです。例えばどんなに勉強をさせて頂いてもですどんなに商売が上手になってもです、それでも矢張り私は神様のおかげを頂かなければいや、金光様のおかげを頂かなければ私は助からんのだ、同時に立身出世は出来んのだ、人間、私の幸せはないのだという思い込みですね。これはもう非常に強かったと自分で思います。
どんなに商売が順調であります時でも又、それと反対の時でありましても矢張り一心にすがって金光様一筋だったという事。ですからならその時分に私がその一心をですね、自分は金光様の先生になろうとか教会を持とうとか、人の難儀が助かる事の為にとかそんなこうどな事は考えはせん、ただ自分の立身出世まあいうならば自分の成功が言わば、私は真実私の幸せであり、一家の幸せであるとそう信じておった。
それもなら自分のどんなに商売の道を励んでもです、どんなに勉強をしてもです、勉強だけで私は幸せになれない、私は金光様のおかげを頂かねば、金光様にお縋りしなければ助からんのだと云う事を非常に強く思い込んでいたのだと思いますね。何回も無い命を助けて頂きましたり、全ての事が金光様金光様で来ておりますから、で御座いましょうけれどもそうであった。ところがその一心がです。
例えばその、真実幸せになるおかげというものが、全然思いも掛けない所に変わって来た。私はお商売によって、幸せになろう。それもおかげを頂かせてもろうて、いわゆる大商人にならせて頂こうという一つの願いをかけておった。所が実際にその大商人になろうという夢はもうもろくも崩れてしまった。這いも立ちも出来んほどにいうなら大失敗に終わった。けれどもです、とは違ったこの様な道が開けた頃には、私の一心というものがだんだん変わって来た。
まあ、昔私共が青年時代に、浪花節に篠田実という大変名人がおりました。この人のレコードの中に「紺屋高尾」というのがある。あれはもうそれこそ前代未聞と言う程にそのレコードが売れたのですね。ある切っ掛けを得てそのおいたん高尾を見初めるそれこそ、高嶺の花である。自分達紺屋の職人ぐらいで、そのおいらんを買うとかあげるとかと言った様な事はとても出来ないのだけれどもです。
同じその男に生まれたからにはね、ああいう綺麗な女を一遍でも良いからという、そこから一心が立ったんです。さあそれからもうとにかく働く事働く事もう金は使わない。そして何年かの後にはねそれを一夜か二夜かではあろうけれども、高尾をあげて散財出来る、くらいな金が貯まった一心とは恐ろしい。そこから「客はきもせで又来るという。」ですか「女は客にほれたといい客はきもせで又来ると言う。
いわゆる嘘と嘘との色里でようもその様な真実を、私くらいなものに打ちあけてくんなました」というのがあの筋なんです。どうでも私はあたにもろうて貰う。3年したら念願そしたら私があなたの所を訪ねて行くからその時にはどうぞ私を女房にしてくれとこういうのである。もうそれこそ夢が飛躍したのです。一夜でも良いというのではなか。今度はそれがね一生をあなたと連れそおうと相手の方から言うてくる事になった。
という程しのおおみかげなんです。まあ俗な例えで御座いますけれども、一心というのはねその様に飛躍していくのです。おかげが。私の場合でもこの思い込みは強かった。どうでもこうでもと。私は他には知らないから商売より他は出来んのだと。商売より他に知らんのだからもう商売の事に掛けてならばもう、あらゆる勉強もした努力もした、本当に私は商売の神様になろうと思うた。そして幸せになろうとこう思うた。
けれどもです、私は自分の例えば商才とか努力で幸せになれるとは夢思うていなかった。私という人間なもう絶対に、金光様のおかげを頂かなければ立ち行かん私だ、幸せになれないんだと。その思い込みその一心が強かった。ですから是がおかげの土台になるもの、私のおかげの土台はそれであったとこう思うのです。そしてなら私が現在ですお徳を少しずつでも頂いておるとするならばですよ。
そのお徳の土台というものがどこにあったか。ここ幾日特にそれを強く感じさせて頂く事はです、それをもう愈々絶対なものとして感じるものはです、またそれを絶対なものとしてそれを信じて、その事を行じて行こうと思うておる事はです「この方の道は傘一本で開ける道だと」こう仰せられる。「この方の道は黙っておっても開ける道」だと云う事をです、いわゆる無口であっても言わんでおってもね、必ず開ける。
必ずおかげが受けられる。いや是でいけば必ず徳が受けられると私はそこんところへここ幾日間はそこに焦点をおいております。それはね、神様をいよいよ信じて疑いません、その一心がですね、そう云う事になる。言わんですむ私。是がね、是から私がもし徳を受けて行くとするならばです、是が私のお徳を受けていく一つの土台になることであろうと思う。おかげの土台になるもの。又はお徳の土台になるもの、何でも同じ事。
土台が無からなければだめ。そこんところにです、神信心もこの一心を出すととこうおおせられる。全ての事に土台が必要でしょうが。信心の土台、おかげの土台、お徳を受けるその土台基礎ですいわゆる。基礎なしに例えばどの様な建築が出来ましても、それはいわゆる砂上の楼閣とこう申します。いかにおかげを受けておる様にあっても、それはそのおかげはもろい。
私今日大祭を奉仕させて頂きますその事に付いて、まあ考えて見ると本当に一商人の私が成程信心は一生懸命させて頂いておったけれどもそれが、商売が出来なくなったらこの様な道が開がって来て、まあここまでおかげを受けてきたと云う事は、もう本当に神様のおかげ神様の特別なお働きを受けておるからであるけれども、本当に有り難い事であるなあと私思わせて頂いたら「台」という字を頂いた。
「台」という字はカタカナのムを書いて口と書いてある。私がこの何日間か、この信心は今始った事ではないです。けれども、本気でそれを一心に思いよるのは、ここ幾日間です。傘一本で開けれる道だと。この方の道は。それはね、神様を信じておるからね、安心という傘があるから、開けるのであると同時にです、神様を信じておるから、言わんで済むのである。どの様な思いをする時でも神様がご承知だからとそれを信じておるから、言わんですむのである。
それをいよいよ信じて来た今日です。言わんですむ私。いわゆる無口になる。その無口になる事が是からお徳を受けて行く私の土台になる。台になるのだと言う風に頂きましたんです。そしてそれを御理解に頂きましたら、只今の御理解第36節を頂いた。同時にそれこそ、藤田実忘れてしもとったあの紺屋高尾の一席の所をです、頂くんです。言うならあの紺屋の職人の一心があの様なおかげになる。しかもそのおかげというかね、そういう自分の夢が叶うと思うておったら。
その夢どころかもっともっと一生連れ添う事の出来る程しの夢がその次に実現しておる。私のそれと一つも変わらん。大商人を目指した。私はおかげを頂かなければ出来ない、私は本当に商売が上手だったんです。ですけれどもどんなに私が上手であっても商才があってもです、私は神様のおかげを頂かなければ、本当のおかげは頂かれないのだという思い込みが強かった。
その思い込みが一心がです飛躍して、なら今日の様なおかげになっておるのです。そこで私はおかげを受けるにも土台があり、お徳を受けるにもなおさら土台なしにはお徳は受けられない。それには一心を出さなければならなん。間違いのない所に一心を立てての信心をさせて頂く所からです、そこにはそれこそ夢にも思わなかった様な、おかげが展開してくると云う事を感じさせて頂くのであります。
どうぞ。